滋賀1区(自民党) 大岡敏孝(おおおか としたか)

2013年04月の記事一覧

2013.04.18 (木)

「一票の格差」0増5減と21増21減

国会が止まっています。これは、自民党が一票の格差問題に対応するとして、0増5減法案を議運にはかったことに反発したもののようです。

私もこの、衆議員の選挙制度のうち、小選挙区部分における一票の格差問題に関して、なんと「憲法違反」という裁定をされてしまいました。これまで「道路交通法違反」クラスの違反はしてきましたが、さすがに憲法違反は初めてです。一部のマスコミ等では「選挙無効かどうか」、ばかりに注目していましたが、私にすればそんなことは小さくて、日本の最高法規である憲法に違反しているとされた指摘のほうがずっと重いと思っています。選挙をやり直すかどうかは、後処理の問題であって、民主主義の根本の仕組みについて、憲法違反の指摘をされたことを重く厳しく受け止めなければなりません。

ここで、私の憲法違反の指摘、なぜそう言われたかについて少しお話しします。これは、滋賀県で一番人口の多い選挙区だからです。例えば、人口が多い40万人の選挙区から議員が一人、少ない20万人の選挙区からも一人だとすると・・・40万人の選挙区の人は、自分の思いは半分しか国政に伝わらないと。したがって、その地域の国民が損をしている。平等ではない。したがって憲法違反という理屈なんですね。滋賀1区の場合、一番小さい選挙区と比べて、1.53倍の人口があって、憲法違反ということになりました。

私としては、「他の議員の1.53倍以上働いているので、決して地域の有権者に損はさせていない!」と言いたいところですが・・・そういうことは裁判所は斟酌してくれません。やはり、一票の格差の是正のために、法改正をしなければならないのです。

そこで0増5減なのですが、これはあくまで前回の総選挙の前に自民党が主張した、緊急的対応としての定数改善案です。昨年色々な議論があった中で、任期満了が近づいたこともあって、民主党も公明党も了承し、ギリギリにこの法案を通しました。しかし肝心の区割り案を通さないまま解散となり、以前のままの選挙区で選挙をすることになったのです。

今回多くの裁判所から指摘されたとおり、この区割りの問題点は「まず各県に1つずつ定数を割り当てて47議席。残りの253議席を、人口比例で各県に割り当てる」という、いわゆる「一人別枠方式」なのです。これが違憲とされた根本の部分なのです。本来これを是正するには21増21減をしなければなりません。しかし、それでは大幅に選挙区をいじらなければならないことから、緊急的対応として0増5減が発案され、一人別枠を外した法案は通ったのですが、区割り案を通さないまま解散になったのです。

そして今、自民党がこの残った半分の法案を通そうとしたところ、民主党は「それでは根本的な解決にならないし、定数削減もしなければならない」という理屈を持ち出して反対し、ついには審議拒否をするに至りました。私もこれまで書いたとおり、確かに0増5減では本来の解決に至らないと思ってはいます。しかし、やりかけた法案を半分通したあと途中で放り出して、また新しい議論を始めるのもおかしいと思っています。簡単に言えば、民主党政権で、2個セットの商品を注文して、去年のうちに半分おさめたところで民主党が解散した。そして今年になって自民党が残りの半分を収めようとしたところ、最初に注文したはずの民主党が、『それではだめだ。残りはいらないから、新しくてもっと良いものを持ってこい、そうでなければお金は払わない』といいだしたようなものです。これはおかしいですね。

したがって私が主張しているのは、まず昨年からの合意に従って緊急措置ではあるが、0増5減はやりましょう。それから定数削減の問題や、比例のあり方の問題、さらには小選挙区か中選挙区かの議論をやりましょう。そして、今のまま小選挙区で行くとなったら、まず一人別枠方式を外した本来の姿である21増21減をやって、比例のあり方の議論をする。中選挙区ということになったら、一票の格差が出ないように選挙区割りを作り、新しい法案を通す。それがスジだ、ということです。

ほかにも定数削減の問題においては、日本の現行制度である議院内閣制では、議員の中から100人近い人たちが政府に入るので、あまり定数を下げると議会が空洞化し、与党としての役割が軽くなってしまうという問題もあります。(例えば極端な話、定数300にして、与党が170、野党が130だったとします。170の中から100人政府に入ってしまうと、残りは70人となり、衆議院の17の常任委員会の数が少なくなって、委員会審議や議会運営が進められなくなってしまいます。)

こうしたことは、選挙のパフォーマンスにしてはなりません。軽薄な議論や、感情的なアオリで決めてしまうと、結果として、日本の国力を落としてしまうことになります。冷静で落ち着いた議論を展開し日本の健全で理知的な民主主義を守ってゆかなければなりません。

私もこれまで、市議会では大選挙区制、県議会では中選挙区制、そして衆議院で小選挙区制と、すべての選挙制度を戦ってきた経験があります。こうして得た知識や経験を、しっかりとこれからの議論に生かしてゆきたいと思っています。

2013.04.01 (月)

父の死

先日、父を亡くしました。69歳でした。

父は戦時中の昭和18年に生まれ、まさに戦後の復興、高度経済成長とともに人生を歩んできました。まっすぐで責任感が強く、仕事熱心な父親で、高校を卒業してゴルフ場を運営する会社に入社し、28歳で支配人となり、67歳で引退するまでゴルフ場の経営一筋に働いていました。現場主義のたたきあげで、私が子供のころ仕事場に遊びに行くと、よく長靴をはいてブルドーザーに乗っているのを見ました。おそらく自分の思い通りにコースを改修していたのでしょう。

また、父としては、大きくて、怖くて、一家の中心としての安定感に満ちた家長でした。私も物心がつき、社会人になってからは、父の大きな背中を追いかけて、社会のリーダーになりたいと政治の世界を志しました。地盤もないのに27歳で市議選に挑戦したり、また31歳で勝算もない中で市長選挙に出て落選したり、40歳で静岡県議を途中辞職して、国替えをして衆議院選に挑戦したりと、普通の人から見れば「無謀なのか、勇気があるのか、わからん。」と思われるような挑戦をしてきました。しかしこれも、私の心の中に、早く父に追い付きたい、なんとかして父に認めてもらいたいという思いがありました。そのために、自分を奮い立たせてド根性を出して、挑戦を続けてきたのだと思います。

そんな父が、4年前に骨髄異形成症候群という病にかかりました。これは、骨髄が病気になり、血液を正しく作れなくなる病気、いわば血液のがんで、少しずつ少しずつ、体中に酸素を運ぶ力と、バイ菌に抵抗する力がなくなってゆく病気です。昨年までは定期的な輸血と医療用酸素ボンベで乗り切ってきたのですが、昨年暮れから体調を崩して入院し、私が衆議院選挙を戦っている間も、父は大津日赤病院で肺炎と戦っていました。看護師さんには「息子が大きな相手と必死で戦っているのに、親父がこの程度の肺炎で死ぬわけにいかない。」と言っていたらしく、投票日を迎えるころには奇跡的に肺炎を克服し、年末には退院して家に帰ることができました。お正月に実家に帰った時には、私の当選を本当に喜んでいて、「男には人生のうちに何回か大一番の勝負がある。ここが勝負の時だ、と見極めて行動する力と、その勝負で勝ちきる勝負根性が必要だ。最初は心配したが・・・お前はよくやった。」と、めずらしく褒めてくれて、私も心底うれしかったのを覚えています。

ところがまた、家にいたのもつかの間、2月に肺炎にかかり入院しました。このときもひどく症状が悪化し、私も何度も見舞いに行きましたが、「見舞いになんか来るな。とにかくお前は仕事に専念しろ!」としか言いません。その後危ない状況になったのですが、なんとか気力で乗り切って克服し、もうすぐ退院となったときに、また別の耐性菌に感染してしまったのです。連戦でボロボロになっていた父の体には、三度目の戦いを勝ち抜く力は残っておらず、3月6日に力尽きました。

父が粘り強く、病気と最後の戦いをしているさ中に、私も朝一番の新幹線で駆けつけることができました。母と私たち三人の子供が集まって、父の最期を看取りました。父は最期まで、母のことを心配し、子供たちのことを心配し、家長としての威厳に満ちた姿のまま、亡くなりました。

私は長男なので、喪主を務めることとなりました。亡くなったのは水曜日でした。父の人生はゴルフ場とともにあったので、もし父と話ができれば、おそらく「三月の土日はゴルフ場が忙しい。葬式は金曜日までに終わらせて、ゴルフ場関係者に迷惑をかけるな。」と言うであろうと思い、JA甲賀さんに無理を言って、大急ぎで葬儀の手配をお願いしました。父や私がお世話になっていたにもかかわらず、あわただしくて十分なお知らせができず、失礼があったことと存じますが、どうかお許しいただければと思います。

私にとって、父は大きな存在でした。反発心と向上心の入り混じったような感覚をエネルギーに変えて、父の背中を追いかけてきました。亡くなってそろそろひと月になるのですが、なにか今でも病院にいるような気がします。そして、病気と戦いながら、私に期待と心配と、簡単に息子を認めるわけにいかないという父らしい尊厳に満ちた姿勢で、私の奮起や活躍を願っている、そんな父が今でもいるような気がします。

正直言って、目標というよりライバルを失ったような、意地を張り合う相手を失ったような、心にポカンとした感じがあります。49日を過ぎて、自分なりに父の死を消化し、本当の意味で理解し飲み込めるようになったら、もう一度父から教わったこと、父とともに過ごしたことを思い出して、奮起したいと思っています。いつかきっと、父を追い越してやる、こんな気持ちを失わずに、挑戦し続ける自分でありたいと思っています。

ページのトップへ