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原子力政策について

今日は原子力政策について、私の考え方を書こうと思います。

実は、この分野に関しての私の意見は「脱原発ではない」ということで固まっているのですが、支援者の中には「原発を争点にすべきではない。脱原発と言っても、脱原発ではないといっても、自民党支持者を二分する。」という声がけっこうありました。

確かに、民主党はバラバラで、一部候補はオモテでは30年代に脱原発と言いながら、支援団体には「選挙が終わったらうまくやります」と二枚舌を使っているようですし、維新の会は脱原発だの容認だのとブレています。その点では、共産党ははっきりしていますね。

そんな中、あるスタッフが、「ひとつひとつの案件に関する考え方を伝えることは、政治家になるっていうときの一番大事な部分だから、選挙を気にして、支持者の心配を気にして、発言を遠慮する必要はないよ。選挙は選挙で、俺たちがしっかり組み立てるから。」と何気なく言ってくれたので、少し安心して、今の自分の考え方をはっきりと書かせていただきます。

私は「脱原発」ではありません。確かに、福島第一の事故を見れば、誰だって心配になりますし、「原発を全部廃炉処理しても十分やっていける。今ある原子力ゴミも全部処分できる。」と言えるのなら、それに越したことはありません。誰だってそう言いたい。しかし現実はそうではないのです。この理想と現実のすき間を埋めるのが、まさに政治家の仕事だと思います。

私はまず、「原発仕分け」をするべきだと思っています。今回の原発事故の分析を進め、新しい基準、しかも最新の知見を集めての基準をつくって、そして「危ない原発は止める。安全な原発は回す。」という作業を粛々と進めるべきだと思っています。いま、点検を終えて、燃料棒を入れた状態で止まっている原発がたくさんありますが、新基準に照らして安全であれば回せばいいと思います。新基準に満たないのなら燃料棒も抜いて廃炉処理に進めば良い。きわめてシンプルな事です。

一方で、民主党政権が「電力不足の危険」をタテに、新基準もつくらず、規制委員会もつくらずに大飯原発を再稼働させたやり方には、明確に反対です。これは「安全だから」回したのではなく、「電力が足りないから」回したことになります。そうなら、電力が足りているいま、すぐに止めなければならないと言う理屈になります。原発事故が発生した時から、「新たな基準が必要」と言われ続けてきたのに何の仕事もしないで、夏をまえにして急に「電力危機だから、停電か再稼働か選べ」なんていうのは、単なる「出たとこ勝負」で、政府のやることではありません。本当にひどいやり方でした。私たちなら、早急に新基準を策定し、それに照らして合格なら、大飯だろうが泊だろうが回せばいいし、不合格なら回させない。それが、本来のやり方だと思います。

私はそもそも、みなさんが「脱原発」になるか、「脱原発ではない」になるかの分かれ目がどこで出るのかと言うと、三つのポイントだと思っています。

一つ目は、「科学技術の進歩や未来を信じられるかどうか。」 二つ目は、「経済の重要性をどの程度重くとらえているか。」 三つ目は「外交・防衛・安全保障とエネルギー資源の関係をどうとらえているか。」です。

一つ目はわかりやすいですね。「科学技術の進歩によって今の原子力を制御できる技術を持てる、あるいはより安全な発電方法が見つけられる」、と思えば、原子力研究を進めるべきですし、それは無理だと思えば、脱原発となります。しかしここで忘れてはならないのは、すでにある原子力ゴミの処分です。この処分のために、さらに進んだ技術も、処分のための費用も必要です。いま原子力をやめれば、ただちに技術はすたれ、財源も確保できず、原子力ゴミの処理はとん挫します。仮にもんじゅなどの再処理に成功できれば、今の原子力ゴミの半減期24,000年が、100年に短縮されるのです。やっと、今の世代で責任の負える年月になるのです。そうした責任を全うするためにも、原子力研究は続けなければなりません。そのためには稼働できるものは稼働させなければなりません。なぜなら、商業化することこそ、技術の進歩にとってもっとも重要な要素だからです。自動車がなぜここまで進歩したか、それは商業化されているからです。携帯電話の進歩を20年前にここまで予想できたか。目覚ましい進歩は、商業化されているからです。利益が生まれ、競争が生まれ、投資が生まれ、人材が投下されるから、技術が進歩する。これは、あらゆる分野の技術について、私たちが経験してきた「進歩の摂理」です。

ここで、「ゴミの処理方法も決まっていないのに、生産を始めたのはけしからん」という方がいるかもしれません。しかし、実は考えてみれば、あらゆる商品はそうなんです。ごみ処理の方法なんて考えないままに、商品はつくられてきました。クルマも、今は100%リサイクルしていますが、昔は適当にバラバラにして、多くをそのまま捨てていました。エアコンも冷蔵庫もテレビも、リサイクルの態勢が出来たのは最近です。その他のもの、家具とか、スポーツ用品とか、食器など、いまでもそのまま埋めています。残念ながらそういうもんなんですね。自動車や家電4品目が経験してきたように、商業化が進み、技術が進み、財源負担の仕組みが出来たら、やっとリサイクルできる。モノをつくる技術よりも、モノを最終処理する技術の方が、高度なものが必要だと言う事なのかもしれません。

二つ目は、多くのことが論じられています。私は、とりわけ今の日本にとっては、経済的な側面は重要だと思っています。1,000年に一度とか、10,000年に一度の地震をおそれ、マグニチュード10が来るかもしれない、11が来るかもしれないといって、今の経済を犠牲にするのは、意味があることなのでしょうか。経済は暮らしに直結しています。それこそ、経済がどんどんダメになれば、教育も福祉も医療も削減せざるを得なくなります。原発で死ななくても、経済や福祉のダメージで死ぬかもしれません。そこまでして、さらに想像を超える大災害を恐れて、安全性が確認され、活用可能なのに使わない、これこそムダです。安定した安価な電気、質の高い電気をしっかりと供給して、日本の産業、日本でしかできないような、高度なモノづくりを支えるべきだと思います。

三つ目は、これも重要な観点ですが、外交・防衛・安全保障上、本当に日本のエネルギーを石油・ガスに大きく依存して良いのか、と言う視点です。

振り返ると、いったいいつから国はエネルギー問題を抱えるようになったのか・・・それは、当たり前ですが、産業革命からです。産業革命は、エネルギー革命でした。最初のエネルギーは何かと言うと、石炭でした。このころは、日本は資源大国だったのです。日本のいろんなところを掘れば、良質の石炭がどんどん出た。船はよく走った。資源の事を気にせずに、どんどん石炭を使えたのです。これで日本海海戦に勝ったと言う説もあるほどです。

しかしその後、石油が石炭にとって代わりました。これは衝撃的だったのです。船は早く走る。クルマや飛行機にも使える。石炭で飛行機は飛ばせませんが、石油なら飛ばせる、ということですね。この瞬間、石油が出ない日本は、資源のない国に転落し、その後石油やくず鉄を止められて、悲しい戦争に走ってゆくことになります。ことほど左様に、エネルギーと外交・防衛は密接にかかわっています。

そして戦後登場したのが、原子力です。石油を持たない日本は、これに飛びつきました。これは過去の経験があったからです。原子力なら純国産エネルギーとして活用できる。石油やガスのように、中東の政治情勢に依存し、ホルムズ海峡からインド洋を数珠つなぎになって日本に運搬し、備蓄しなければならない・・・どこかで何かがあると、日本はたちまち干上がってしまう・・・これは戦争を経験した方々だからこそもった危機感なのでしょう。実際に、いまの石油やガスの備蓄は、国家備蓄と民間備蓄を合わせて、ガスで3カ月、石油で6カ月です。たったそれだけの期間しか、日本は持ちこたえられないと言う事なのです。

以上のような考え方から、私は「脱原発ではない」という結論になりました。ただし、徹底した安全確保を前提としています。まさにこれは、日本が一番得意とする部分だと思っています。

私はかつて、原子力規制庁をつくるとか、規制委員会をつくるとか言いながら、なんにも前に進まない時から、「原子力において世界トップの国は、日本、アメリカ、フランスだ。すでに日本の閉鎖的な原子力ムラに対する国民の信頼は失墜した。だから今回、アメリカとフランスから最高の技術者を招へいし、日本のトップ技術者も入れて、日米仏の英知を結集した世界最高の原子力機関を作り、そこでの議論を経て最新の基準をつくるべきだ。原子力事故を経験し、それを乗り越えようとした日本の基準が世界の基準になる。」と言い続けていました。

いまでもその考え方は変わっていません。世界の人口が増え、貧しかった国が豊かになり始めると、世界的にエネルギーが不足することは明らかです。たしかに風力とか太陽光とか太陽熱とか、積極的に開発は進めるものの、大容量、高品質、安定性など高度な産業で利用できるものは、現時点では、原子力に頼らざるを得ないのが事実です。だとすれば、日本の最高の英知が原子力に挑戦をつづけ、原子力を克服する事は、世界の希望でもあります。

私は、日本人ならきっとやれる!と信じています。