滋賀1区(自民党) 大岡敏孝(おおおか としたか)

プロフィール

大岡としたか 大岡としたか 大岡としたか 大岡としたか 大岡としたか 大岡としたか

昭和47年4月16日、滋賀県甲賀郡(いまの甲賀市)土山町に生まれました。お茶畑が広がる田舎の町で、好奇心旺盛な少年として育ちました。
小学生のころ親にアメと鞭で動かされて勉強を始め、中学受験。13歳から親元を離れ、鹿児島県のラ・サール中学校で寮生活を始めました。
ラ・サール高校時代はラグビー部に入りましたが、その後進路について悩み始めます。理系クラスにいましたが思い切って文転し、早稲田大学政治経済学部に進学しました。
大学時代から政治と経済には深く関心を持っていましたが、まさか普通の家に生まれた私が政治家になれるとは思っておらず、企業経営者になることを目指してスズキ(自動車)株式会社に入社しました。
当時のスズキは、「中小企業のおやじ」と呼ばれた鈴木修社長(現在は相談役)の強烈なリーダーシップの下、アジア・インド方面に積極的に展開していました。私自身もアジアやインド、アフリカといった新興国に関心があったので、海外事業部、とりわけ環境が厳しい国に赴任したいと希望していました。
そうした中、政治への関心はさらに高まり、議員を目指す仲間たちとの出会いがあり、彼らと政治活動の手伝いをするようになります。政策勉強会(当時、「構想日本」の勉強会が立ち上がった頃でした)などにも積極的に参加して、それ以降、自分自身の手で政治改革を進めたい、さまざまな政策を形にしたいという思いが強くなりました。
平成11年4月、一念発起して会社を辞め、浜松市議会議員に挑戦しました。お金もない、組織もない、知名度もない中で、選挙運動を開始。この時には、選挙のルールやしきたりも何も知らないまま、「政治への思い」一つでスタートしました。「ためがき」?「後援会入会カード」?何も知らなかったので、経験者からひとつひとつ教えてもらいながら、活動しました。それでも何とか当選できたのは、同級生や会社の同期、会社の先輩やその知り合いの皆様のご支援のおかげでした。新しい世界にチャレンジしたこの時に、本当に多くのことを学びました。
そして平成15年4月、当時市議会での議論で、意見がなかなか合わなかった当時の市長さんに対抗し、浜松市長選挙に出馬しました。「市町村合併の形についての対案」「行政改革・身を切る改革の徹底」「市庁舎のありかた」などを争点にして戦いました。市長選は予想していた以上の規模での活動が必要で、貯金を使い果たし、無我夢中で全力で戦いました。しかし・・・結果は14万票対8万票で、惨敗でした。
その後、中小企業の支援をライフワークにしようと、中小企業診断士の資格を取り、仕事を開始。仕事しながら次の選挙への準備を始めました。
平成19年4月、静岡県議会議員から再スタートします。何とか当選して、県政改革を志す仲間4人で、新しい会派「志士の会」を結成します。私以外の3人は、自民党を脱藩した大ベテラン(議長経験者2名と、幹事長経験者1名)でしたので、議会の回し方、会派交渉の仕方、県庁との付き合い方など、本当に勉強させていただきました。若手が一人だけでしたので、何から何までやらせていただいて、毎日毎日走り回っていましたが、今でもそれが私の血肉となり、国会での活動に活きています。
平成21年、当時の自民党は国民の信頼を失い、民主党がいよいよ政権交代する機運になりました、この時、私の生まれ故郷である滋賀4区で、自民党の衆議院候補者公募が出されます。私は、「国政をやるなら自民党から」と考えていたので、支持急落中の自民党でしたが、迷わず公募に2度とも応募しました。しかし残念ながら、結果は2度落選。その後、総選挙で自民党は政権を失ってしまいました。あの時出ていれば、私も落選していたのかもしれません。
そして平成24年、野党である自民党の、滋賀1区の候補者公募が行われました。当時は民主党の全盛期で、滋賀1区では大臣を輩出し、市長も取られているという状況でした。そうした中でしたが、「このまま民主党政権が続けば、国がつぶれてしまう。ここは捨て身で勝負するしかない。」と考え、再度、公募に応募します。そして大津市、高島市の皆様から受け入れていただき、次の衆議院議員選挙の候補者となりました。
それからは、ひたすら選挙のための活動になります。静岡県議会議員を途中で辞職し、家族とともに滋賀県に帰ってきました。私の実家は甲賀市ですので、実家に住むわけにはいきません。大津市に家を借りて、新しい生活が始まりました。子どもたちも、全員転校です。一番下の子は保育園でしたので、すぐに慣れましたが、長女と長男は新しい学校で苦労したと思います。言葉も違う、お父さんの仕事は職業なのか何なのかよくわからない、そんな中でも友達ができ、次第になじんでいきました。地元大津の温かさは、本当にありがたかったです。
そしていよいよ、解散・総選挙となりました。私は当時は、「落選確実」と言われていました。それでも、地元の皆様、市議や県議の先生方、企業や団体の皆様、本当に多くの皆様のお力をおかげで、下馬評尾を大きく覆して当選することができました。
平成24年初当選。平成26年二期目当選。
平成27年には財務大臣政務官に就任しました。初めての政府の仕事です。かねてから、私は財政再建、予算の効率的な執行、税制の見直し、政府資産(とりわけ政府保有株式)の中身の見直しなど、いろいろ言いたいことを言っていたので、採用していただけたのではないかと思っています。希望していた役職に就いたので、「この機会を最大限に活用しよう。地元に帰る時間を減らしてでも、仕事を覚え、官僚の仲間を増やし、信頼を得られるようにしよう。」と心に決め、政務官の仕事に没頭しました。この時に得た「政治的財産」は本当に大きいと思っています。いまでも仲間の力を借り、やるべき仕事を進めています。
そして平成29年には3期目の当選をいたしました。3期目となると、二番手、補佐役として「汗をかく」仕事が増えます。厚生労働部会の部会長代理、労政局の次長、厚生労働委員会の理事、安全保障委員会の理事、経済産業委員会の理事など、党や国会の仕事を中心に、各分野の知識や経験を深め、また新しい仲間を増やすことができました。
そしていよいよ、3期目の任期満了を迎えます。コロナで傷ついた国民の暮らしをどう立て直すか、経済を再起動し、医療制度を大きく改善するにはどうすればよいか、具体策をしっかりと打ち出して、皆様の信頼を頂きたいと思います。
これからも、まっすぐに、正直に、全力で仕事に励みます。小さな声をひとつずつ政策に変えてゆけるよう、心がけます。どうか、皆様お一人お一人のご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

経歴

昭和47年 滋賀県甲賀市で生まれる(誕生日は4月16日)
昭和60年3月 土山小学校卒業
昭和63年3月 鹿児島県ラ・サール中学校卒業
平成3年3月 鹿児島県ラ・サール高等学校卒業 これまで6年間寮生活
平成7年3月 早稲田大学政治経済学部卒業
平成7年4月 スズキ株式会社 入社
平成10年12月 スズキ株式会社 退社
平成11年 4月 浜松市議会議員に初当選
平成15年4月 浜松市長選挙にて落選
平成17年12月 中小企業診断士試験(経済産業省所管の国家試験)に合格
平成19年4月 浜松市中区より静岡県議会議員に当選
平成23年4月 浜松市中区より静岡県議会議員に再選
平成24年12月 第46回衆議院議員総選挙にて滋賀県第1区より初当選
平成26年 内閣委員会、決算行政監視委員会に所属
平成26年12月 第47回衆議院議員総選挙にて二期目当選
平成27年1月 地方創生に関する特別委員会、厚生労働委員会、決算行政監視委員会に所属
平成27年10月 財務大臣政務官
平成28年9月 財務金融委員、内閣委員、科学技術特別委員
厚生労働部会 副部会長、経済産業部会 副部会長
令和3年8月 環境副大臣に就任
令和3年10月 衆議院議員4期目当選(滋賀1区)
ページのトップへ